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エール ~インタビュー~

神谷和夫さん“人の役に立つ”を仕事に。偶然が生んだ福祉への道定年退職後の悠々自適生活に、半年でピリオド。「根っからの仕事人間がのんびり暮らすのは無理」と気づいて心機一転、第二の人生がスタートした。ちょっとした偶然から福祉に興味を抱いた神谷さんがたどった介護士への道のりから見えてくる定年後の仕事の魅力とは。

家族と共に次々引っ越した、仕事ひとすじの転勤族。
憧れだった“定年後は悠々自適”のはずが…


明るい陽射しが差し込むオープンな雰囲気の事務所では、テキパキと立ち動く女性たちの姿が清々しい。ここ「流山ユー・アイネット」は、1995年、代表の米山孝平さんが中心となって地域住民のケアを目的とした有償ボランティア団体を設立。専業主婦の余暇を利用したサービスを提供しつつ、男性が仕事で培ったさまざまなノウハウを活かして組織を発展させ、'99年4月には千葉県内初のNPO法人として認証を受けています。神谷さんは、流山ユー・ネットの立ち上げメンバーのひとり。訪問介護のスペシャリストとして、また後進を育成する指導者として、73歳の現在も活躍されています。


神谷: 最初は会社を退職して悠々自適の生活に憧れていたんですが、実際、地元に帰ってみると地域にぜんぜん馴染みがないんですよ。それまでずっと家はねぐらで、企業という村に通っていたわけですから。女房はもうガッチリ地域に根をはってやってましたけど、言ってみれば僕は地域の異邦人。かといって、することは何もない。そういう状態が半年くらい続きましたかね。もう退屈で退屈で仕方がなかったですね

学生時代

■学生時代


明治生命では、全国各地に赴任

■明治生命では、全国各地に赴任


 以前は明治生命に勤めてまして、若い頃は営業所長として全国の保険セールスの営業所を廻りました。その時代は、1任地で3年。研修生といって所長候補で入りましたから、本社に2年、その後はずっと地方です。富士市にある吉原からスタートし、静岡や尾張勤務の後、東京に戻ったと思ったらまた転勤。当時、特命制度というのがありまして、弱小化した営業所を建て直す仕事を任ぜられたんです。僕は単身赴任は絶対にしない主義 だったから、家族は常に一緒に動くのが当たり前。子供は大変だったでしょうね。広島支社の副社長になった時も、ちょうど子供の高校入試と重なって。一般の編入は間に合わないから難しい試験を受けて入ったりしまして、よく耐えたと思いますね。まぁ、ある意味では、子供のためにはプラスになったと思いますけどね(笑)。その後定年までは財務の仕事をし、退職してからは子会社で2年間勤務。もっと居てくれっていわれたんですけどね(笑)、62歳で辞めました。その当時は、第二の人生を思いっきり楽しむつもりでしたから。これ以上会社にいたらそれができなくなると思い、無理言って辞めさせてもらったんですよ。

 ところが、退職してからの日々がなんとも辛かった。僕は昭和ヒトケタ生まれなんですが、役割を失うということが恐い世代なのでしょうか、まったく自由な時間を前に途方に暮れてしまった。そんな私を尻目に、女房は地域の活動で飛び回っている。僕はいつも家に居て、電話番ですよ。女房がたまに買い物に出かけるときは、連れてってくれ、みたいな感じ(笑)。半年あまりそういう生活をしたんですが、まさに「濡れ落ち葉亭主」の典型でしたね。  

 女房は同じ明治生命にいたんですが、当時から組合活動をしていたり、と活発なタイプ。「明治文学研究会」という、読書会のような社内の同好会がありまして。女房は友人に誘われてイヤイヤ来たみたいなんですが、そこで僕と会って、お互い火花がパチパチっと散ってね(笑)。恋愛時期は長かったですよ。僕が富士市の吉原に転勤になって、静岡の所長になる頃までは女房も仕事をしてましたから、いわゆる遠距離恋愛になりますね。静岡と東京の中間で逢ったりしてまして、昭和34年に結婚。彼女はそれと同時に会社を辞めました。でも、およそ3年平均で転勤という大変な生活の中で、地域に溶け込む術を磨いていったんでしょうね。

福祉に興味を持つなんて、想像もしていなかったけれど…。
持ち前の探究心に火がついて、猛勉強スタート


「第二の人生」をまったく楽しむことができなかった神谷さん。何か始めよう、と決意して生涯大学の門を叩いたところ、偶然のいたずらで福祉の勉強をすることに。その時に学んだこと、培った人脈が、現在の仕事への道を開くことになるとは、当時は思ってもいませんでした。


神谷: 会社を辞めてから半年くらい経った頃、このまま家で何の生き甲斐もなくウツウツとしてるのはもったいない、と思い始めました。そこで、当時、県の施策のひとつとしてあった「生涯大学」入学を目指したんです。僕は陶芸科を希望したんですが、すでに満杯で、福祉科の方なら欠員があるよ、と。仕方ないから、福祉科に渋々入ったというのが本音です(笑)。それが福祉との縁ができた最初ですね。本当に偶然のことで、あの時、陶芸科に入っていれば、今頃は福祉なんてまったく関係なかったかもしれません。それで福祉科でしばらくやっている間に、千葉県や流山市の福祉のあり方に色々と疑問を持つようになりましてね。それで「本気で福祉のことを勉強してみよう」と思い立ちまして。生涯大学は2年間なんですが、途中退学して、翌年に江戸川大学総合福祉専門学校に願書を出したんです。

江戸川大学のクラスメイトたちと

■江戸川大学のクラスメイトたちと


 学校では、あらゆる介護の方法を厳しく教えられました。中でもボディメカニズムに関しては、原理を詳細に教わりましたね。僕がやってきた訪問介護に必要なノウハウも、みなここで勉強しました。例えば、介護は腰がダメになったら大変なんです。介護する方の持ち上げ方にしても、腕の力と腰の力と腿の力の全てを使ってやらなければいけないんですが、それを知らないと腰の力だけで持ち上げようとする。それで腰がやられちゃうんです。その他に大事なのはリズム。車椅子に移動する時などは利用者に協力してもらって、「私の首に手をかけて下さい」とお願いして、一緒に1、2の3でリズムを付けて持ち上げるんです。すると相手も必死でつかまってきてくれますから。そういった実践的なことが、今もとても役立っています。

4、5人で立ち上げた「流山ユー・アイネット」。
きめ細やかなサービスが受けて急成長


現在、事務所には2名のケアマネージャー、10名の介護責任者、それにグループホームやデイサービスの常駐職員が39名と多数のスタッフを抱えています。だが、そんな「流山ユー・アイネット」もスタートは4、5人。生涯大学での出会いが、自分たちを、そして地域を変えていくことになるのです。


「流山ユー・アイネット」代表、米山さんと

■「流山ユー・アイネット」代表、米山さんと


神谷: 僕が所属する「流山ユー・アイネット」の代表・米山孝平さんとの出会いは、生涯大学にいた頃。大学を中退して専門学校に入ろうという時に、米山さんから「私は近々NPO法人を立ち上げるから、学校を卒業したらぜひうちの団体に参加して活躍してくれ」と話があったんです。ですから、学校を卒業すれば自分の仕事は約束されていたわけですね。もちろん僕は、「流山ユー・アイネット」の考え方に賛同しておりましたし。

 最初は米山さんを含めてメンバーは4、5人。訪問介護を中心に、立ち上げから参加しました。ここでの仕事は、訪問介護やグループホーム、デイサービスや介護支援など5つのサービスをやっています。ただし、単なる介護保険活動というだけでなく、助け合い在宅サービス(ふれあい活動)を基本とした有償ボランティアを軸に活動している団体なんです。現金のやり取りではなく、非常に安価なふれあい切符を事前に購入していただき、その点数によってさまざまなサービスを提供しています。介護保険の対象になっていない部分のきめ細やかなサービスや、心のケア。そういったことをボランティアとして対応する。年々、高齢者も増えていますし、介護を必要とする人が地域の中で安心して暮らせるためにも、こういった住民同士の助け合い活動が必要なのではないでしょうか。

「流山ユー・アイネット」の仲間たちと

■「流山ユー・アイネット」の仲間たちと


 現在、面倒見る側と面倒見てもらう人も含めて、登録者は987名。実際に動いているのは3分の1くらいでしょうか。基本はボランティア団体ですから、介護保険の仕事をしながらも軸足はボランティアに置いている。いつでもボランティアに変身できるようになっているんです。その柔軟さが「流山ユー・アイネット」のいいところだと思いますね。


知識や人脈が広がりが生む、新たな仕事との出合い。
生き方を探っていれば、年齢に沿った働き方がある


学校を卒業してから丸9年。肉体的にもハードな訪問介護の仕事を続けてこられた神谷さんは、実際のお歳には見えないほど溌剌としています。後進の育成を目的とした訪問介護の講義を母校で行うなど、福祉に関わる新たな世界を広げています。


「さわやか福祉財団」堀田さんと

■「さわやか福祉財団」堀田さんと


神谷: 文私の体験の中で一番記憶に残っていることは、「流山ユー・アイネット」の仕事と平行して、「さわやか福祉財団」にも関わらせていただいたこと。この団体は、ロッキード事件の検事としても知られる堀田力さんが理事長をなさっていて、啓蒙活動をメインとしているんです。米山さんからの推薦もあり、平成9年からの5年間、週3回職員として「さわやか福祉財団」に勤務しました。それが、僕の人生に大きな変化を与えてくれたんです。

 私がやった仕事は、高齢者の住まいの問題。今の会社で大きな問題となっていますが、「終の棲家」をどうするか、といった問題を担当するセクションのリーダーを務めました。当時、ふれあい型グループホームという、認知症のお年寄りのグループホームを「流山ユー・アイネット」で開設したんですが、同様の住まい方を、元気なお年よりもできるのではないか。そんな提案を、「ふれあい型グループホーム」という名前で「さわやか福祉財団」ではしていたんですね。9~10人の仲間と、家庭的な雰囲気の中で一緒に生活する。今の言葉で言えば「グループリビング」です。「さわやか福祉財団」に行く以外の4日間は「流山ユー・アイネット」で介護の仕事をしていましたので、なかなか大変ではありましたが、とても有意義な5年間でしたね。

73歳の現在も、充実した仕事ライフを満喫。
形を変えながら叶える、生涯現役のあり方とは?


江戸川大学などで、後進の育成にあたる

■江戸川大学などで、後進の育成にあたる


神谷: 学校を卒業したのが平成9年。学校を卒業して何年かは完全に訪問介護だけやってきましたが、仕事内容はかなりの重労働です。僕もすでに73歳。だんだん身体も弱くなってきますし、人の世話になることも出てくるかもしれない。しかし、自分の身体が動くうちは、可能な限り最大限に仕事はしたいと思っています。そういう意味でも、現在進めている後進の指導にはさらに力を入れていきたいですし、年々、仕事の内容も変わってきていますね。

学んだことをフルに活用しながら、現役で介護の仕事に携わる神谷さん。定年後に学んだこと、培った人脈が、神谷さんを新たなテーマへと導いてくれているよう。現在は、住まいの問題にも関心を持ち、アドバイザーとして助言を求められることもたびたびといいます。


神谷: また、「さわやか福祉財団」で培った「終の棲家をどこにするか?」といったことへの助言なども、今後、自分の仕事としてやっていくことだと思っています。具体的にはグループリビングの提案ですね。介護が必要になってくると、老老介護の問題等も出てきます。そこで、グループリビングを成功させるための智恵が求められるんですよ。大切なのは、自分のプライベートな領域と、他人と交わる領域との兼ね合いです。ベッタリと、かつての下町みたいな台所の奥まで覗かれるような付き合いはおそらくムリでしょう。グループリビングの場合は皆で合議しながら暮らしのルールを決めていきますが、バランスにきちんと配慮することが肝心なんです。たとえば、プライベートな生活はきちんと確保しながら、1日のうち昼と夜の食事は皆と一緒に食べる。けれども、朝は各自が自分の部屋のキッチンで調理して食べる、といったようなあり方ですね。

 4月の介護保険の改正では、訪問介護とデイサービスとショートステイの3つの要素がからまった「小規模多機能居宅介護」が取り上げられました。このシステムがどうグループリビングと結びつくのか、といったことにも注目しています。というのも、最近、老人の孤独死の問題が増えてきてるんです。松戸の常磐平団地や多摩ニュータウンなど、かなり昔にできたところには単身の高齢者がそのまま住み続けている。子供が独立すると夫婦だけが残されて、その後片方が亡くなった状態でひとりになっている人がものすごく多いんですね。誰にも見守られずに亡くなって、何日も経ってから発見される例がたくさん出てきている。そういう孤独死を防ぐためにも、グループリビングで10名ほどの規模で集まって、お互いの領域は侵さないように一緒に生活する。そういう生き方がこれからは自然になっていくんじゃないかと思いますね。それに小規模多機能のやり方が結びついていくと、介護が必要になったとしても上手くいくんじゃないでしょうか。

 5年間、様々な方にアドバイスをしてきましたが、住まいの問題はとても大切だとの思いを強くしました。「さわやか福祉財団」で啓蒙活動をやってきたノウハウが、さまざまな局面で役に立つんですよ。高齢者の住まいに関して理想を言えば、減築ができれば一番いいんです。2階建ての家を平屋にして、間数を少なくして。女優の高峯秀子さんなんて、そうですよね。ただ、これはお金がかかってしまう。僕は、今は女房とふたり暮らしですが、その内色々なものを整理して簡素な生活をしたくなったり、グループリビングに参加したくなるかもしれない。だから息子には、「そうなったら、子供の頃に住んでいた家をお前が好きにリフォームして住めばいい」って言ってあるんです。子供たちの人生に親の世話を押し付けたくない、という気持ちがある。いつも「呼び寄せ老人には絶対ならない」って思ってるから、家に息子が戻るとしたら、僕たちが出て行く時なんです。それが子供に対する愛情ですよね。

 専門学校時代の恩師で、1級建築士でもある先生が立ち上げたNPOで「住まい街研究会」というのがあるんですが、今、自転車振興会の補助を受けて、成田の近くに実際にグループリビングを建てているところです。それに対しても、ずいぶん助言などしてきましたね。これから5、6年経って、自分が80歳を迎える頃になったら、今度は自分自身がグループリビングに参加する問題が差し迫ってくるわけですよ。だからこそ、助言をしながら自分の問題としても考えていきたい。そういったところに、僕の80歳以降の仕事は絞り込んで行こうかと思っています。実は流山にも、その候補地があるんですよ。そのグループリビングにも助言をしているんですが、先生から「ぜひ神谷さんも入ってよ」って言われてまして(笑)、自分が関わってできた「終の棲家」に、最終的には自分たちが入ることになりそうです。

プロフィール

特定非営利活動法人「流山ユー・アイネット」

江戸川大学総合福祉専門学校講師 神谷 和夫

昭和8年生まれ。明治生命で営業を担当し、営業所長、支社長として全国各地に赴任。60歳で定年退職後、2年間子会社に勤務ののち退職。半年の休養期間を経て「生涯大学」で福祉の勉強を開始、のち「江戸川大学総合福祉専門学校」に入学して介護のノウハウ、原理を学ぶ。95年、「流山ユー・アイネット」立ち上げに関わり、現在は理事として奔走する傍ら、自らも介護の現場に携わる。また、その知識や経験を受け継ぐため江戸川大学総合福祉専門学校で講師を勤め、またグループリビングなど住まいに関するアドバイザーとしても活躍中。

会社概要

特定非営利活動法人「流山ユー・アイネット」

〒270-0101 千葉県流山市東深井865-44

TEL:04-7153-3911

FAX:04-7153-3932

URL:http://www.npo-support.jp/ui

団塊ワーカーへの10の質問

あなたにとって仕事とは何ですか?
生き甲斐であり、世の中での役割を担っていく手段。

定年前の仕事と現在の仕事は関係ありますか?
まったく無い。ただし、責任感は共通。

年齢を重ねた上で、新しい仕事を始めることの強みとは?
年齢を積み重ねたことでの洞察力と、経験に基づいた役立つ助言ができる。

仕事をする一番の理由は何ですか?
心のハリ。

現在の仕事はどうやって見つけましたか?
米山さんとの出会いから。

「定年後は仕事をしない」という選択肢も検討しましたか?
悠々自適の生活に憧れていた。

現在の仕事はいつまで続けるつもりですか?
仕事の内容は変わっていくと思うが、続けられるだけ続ける。

年齢を重ねていく上で、大変だと思うことは?
健康管理。以前はステーキが大好物だったが、今は肉類を減らし、玄米食を心が けている。

現在、生活のハリとなっているのは何ですか?
世の中の役に立っているという充足感。

これから定年を迎える人に、一言。
自分の好きな道を、最大限にやり通すことが大事。